「白象」と書いて「びゃくぞう」「はくぞう」などと読みます。日本における白象というと、仏教絵に登場することの多い絵柄です。そのため神聖視されていますが、ところ変わって英語圏に行くと白象(ホワイト・エレファント)は「(維持費のかかる)わずらわしい物、無用の長物」を意味するとのこと。

この意味は次の昔話が由来になっているようです。

タイの王は昔、自分の嫌いな家臣に白い象を贈った。贈られたほうは、白い象など珍しいもので、しかも王から贈られたものだからまさか捨ててしまうわけにもいかない。すなわち、森へ逃がしたり、あるいは殺したりは絶対にできない。ところが象だから大食らいであるため莫大な金がかかり、しかも物を踏みつぶすので、家の中が目茶苦茶になるが、それでも捨てることもできず、その家臣はほとほと困ってしまう。

出典:ウィキペディア

ということで、この出だしは今回の近くの旅には関係ありませんが、蘊蓄として覚えておくと居酒屋での話くらいには使えると思います。

射手神社の場所

射手神社と書いて「いでじんじゃ」と読みます。「いて」ではありません。

国道163号線を京都から伊賀市方面へ走っていくと大盛で有名な「松の家」が右手にあります。その少し先を左へ入っていくと「射手神社」があります。

国道163号線沿いに神社への看板は出ているのですが、かなり風化しているため意識していないと見過ごしてしまうこと間違いありません。

射手神社に関するコト

射手神社ですが、名前からもわかるとおり「射手」なので武運長久を祈る武士たちの信奉が厚かったという話があります。また、神社の社伝を見ると「源平盛衰記には木曽義仲追討の宣旨を受けた源義経が当社を参詣し、戦勝祈願を行った」と記されています。

今となっては見落とされる位置に鎮座していますが、いろいろと逸話を持っている神社です。

弓矢を使う人や、一発必中の運を引き寄せ強化したい方におすすめの神社だと言えます。

さらにこの場所は昔の人が伊勢から伊賀を通って京の都へ通じる道の途中にあったため、西行法師も射手神社を訪れて次の歌を残していると言われています。

あづさ弓 ひきし袂も ちからなく 射手の社に 墨の衣手

西行法師

境内は比較的高い場所にあるため、伊賀上野市街を一望できます。春は桜、秋は紅葉を楽しめるところでもあります。隠れた名所と言えます。

境内から伊賀市街を一望

射手神社へ参拝

国道163号線から北側の生活道へ入って進むと、目の前に鳥居が見えます。ということで、この生活道は「参道」ということになります。

生活道が参道

鳥居へ向かって、緩やかな上り坂を走っていきます。鳥居の左側に専用駐車場があります。

専用駐車場あり

駐車場の入り口はコンクリートで整備されています。駐車場は広いため余裕をもって停められます。大型バイクや大型車でも安心。

砂利なので注意

モンキー125とZ125PROを停めましたが、、、余裕がありすぎて寂しげです。

佇む二台

それでは鳥居のところから徒歩で参拝。鳥居の横に石碑があります。

左手に石碑

鳥居から眺めると、先に急な階段があります。

鳥居の先に急な階段が・・・

鳥居をくぐっていきます。鳥居にも「射手神社」とあります。

射手神社の鳥居

参道の両側には紅葉の季節に色づく木々があります。写真好きな方にはうれしいポイントです。

撮影スポットになります

急な階段の前にやってきました。目の前で見ると、思っているよりも急でした。

かなり急坂です

階段を上る手前に、燈籠と手水と狛犬があります。

燈籠
手水
白丸部分に注目すると
龍神様がお出迎え(ガォ~)
ガォ~
シャ~

では、覚悟を決めて階段を上っていきます。

結構長い階段
紅葉時期に訪問したい

階段を上っていくとすぐのところに拝殿があります。

圧倒されます
たくさんの神様がいらっしゃいます

拝殿は比較的広く、神楽殿としても使われているように感じました。

広々としています

本殿で白象がお出迎え

さて、ここからが射手神社の面白いところ。本殿の装飾がですね「インド的」なんです。昔の仏教的な印象です。

どこかインド的
インド的な象

神社というよりも「お寺」にありそうな装飾です。ということは、おそらく「象」は「白象」なんだろうと思います。

ダイナミックな表情の象
仏教的な配色

なぜ神社なのに仏教的な「白象」なのか

どうして神社なのに龍神などではなく、仏教的な象なのか。違和感を覚えながら参拝をすませて階段を降りました。

階段を降りて駐車場へ戻る途中に、次のような説明があり、これを読んで理解できました。

もとはお寺だった

お寺の流れを持ったまま、神社になったようです。そして、これが国指定・重要文化財「十三重塔」。

重要文化財「十三重塔」

神社仏閣には、今に至るまでの紆余曲折が少なからずあります。特に都へ通じる途中や、都に近いところの神社仏閣は何度も戦火に遭っていたり、地域のパワーバランスが変化したとき、権力者の都合で変化させられたりしているため、複数の神社仏閣が合併していることもあります。こういう経緯が見えてくると、一見するとチグハグな印象も上手くまとまって存続したんだなと関心します。

現代の私たちよりも、昔の人の方が環境や権力や時代の流れへ対応する力が柔軟だったのではないかとさえ思えてきます。